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馬場 すみません、僕ばかり色々うかがってしまいました。そろそろ杉原先生の方からのご発言を頂きたいと思います。

杉原 ミニシアターエイドの話が出たので、そちらの方を。これは深田晃司監督がスポークスパーソンみたいな感じになって、その一方で濱口監督は一歩、後ろに引かれて、その相乗効果によって盛り上げていかれたっていう感じがあります。そのへんの噛み合わせというのは、どういう風に決まっていったんですか?

濱口 一応、ご存知でない方のために申しますと、私と深田晃司さんとが発起人、ほかに代表が3人いるんですけど、『ハッピーアワー』のプロデューサーの岡本英之さん、高田聡さんという人と、モーションギャラリー、クラウドファウンディングをやったサイトの大高健志さんという方、5人で共同発起人みたいな感じでやったんですけど。基本的には、棲み分けっていうのはすごく自然とできたっていう感じなんですよね。3月の末に名古屋のシネマスコーレっていうところが、緊急事態宣言が出る前でしたけれども、客は8割9割減っていると。もう全然、高齢者とか来なくなっていて、まずい、っていうインタビュー記事が出て。その記事を見たときにもう、クラウドファウンディングをしようっていうことを思って。で『ハッピーアワー』でも、まさにモーションギャラリーでクラウドファウンディングをやっていた経験があるので、こういう形ならば出来るんではないかってことを提案したら、それが4月2日とかそういう感じだったと思いますけど、その日のうちに深田さんから電話が来て「いまモーションギャラリーの大高さんと話して、僕たちもクラウドファウンディングを考えていたんですけど、もう一緒にやりませんか」っていう話になったんですよね。で、それで深田さんがその中に入って、一緒に話してて、すごく自然と役割は決まっていくというか、まあやっぱり社会に広く届く言葉っていうのを深田さんは持っているので、まずそれを出していくと。ただまあ、何というのかな、自分の役割っていうのがもしあるとしたら、やっぱり個人的な手触りっていうのを何か出していくっていうことだったような気がします。深田さんも全然そういうものがある方だと思うんですけど。深田さんが言っているような言葉で自分は語れないっていうところがあるので、何か別の言葉、社会として大事だからっていうよりは、個人として動きたいけど動けないっていう人たちの背中をちょっと押すような言葉っていうものが何かあればいいかなと思って棲み分けていたっていう感じだと思います。

杉原 ちょっと戻りますけれども、先程、正面からのショットというのと、ドキュメンタリーという話があったと思います。東北三部作から濱口監督のスタイルが変わったなと僕は思っていたんですけれども、今日お話をうかがってると、実は首尾一貫している、『PASSION』から『ハッピーアワー』に至る流れというのが非常によく見えてきたんですね。その中でひとつポイントになってくるのが、人々の感情に寄り添っていく、この感情ということは、一昨年にパリの日本文化会館で行われたレトロスペクティブに際してつくられた冊子でもよく述べられていたことだと思います。ところで、正面撮りということ、それが自然な形であるということ、実はまったく非自然な自然なわけですけども、そこにおいて小津安二郎監督がずっとそういうことをやっている、なおかつ小津監督は、これが最も普通に見える形であるのでやっていたわけですけども。そうしたところの影響というのは何かあったんでしょうか?

濱口 これは「無い」とはもちろん言えないけれど……ただ、これはですね、「正面ショットっていうと小津ですよね」っていうことを言われるんですけど、同じ、重なる部分はあると思うんですけれども、これは微妙にやっぱり違うとは思っていて、それは、よく言うように小津はローポジションだっていうことですよね。僕は目の高さに置いている。で、これに関しては小津の方が圧倒的にラジカルなんです。このローポジションは一体何なんだっていうことなんですよね。目高って本当に向かい合っている人の目線を代理しているっていう。テレビドラマとかでもよくある、そういうポジションなんです。僕がやっているのはどっちかっていうと、その範囲内のことでしかないっていう感じがあります。ただ、確かこれは舩橋淳監督がおっしゃってたことで、残された資料を見ると、小津はレンズのどのあたりを見るかっていうことが凄く明確に決まっていると。で、実際にレンズの上手なり下手の端を見るのと、ど真ん中を見るっていうのは、これは全然その受け方が違うっていう話をしていて、本当に大事なときだけ、レンズのど真ん中を見せるようにしていたんだっていうこと、それは具体的にどの部分を言っているのか、そんなに正確にわかっているわけではないんですけども、ただまあそういう意識は小津にもきっとあったんだろうと思います。じゃあ、そのど真ん中を見ているときは、それは一体何なのかっていう問題がこのローポジションにはありますよね。人物の目線としてはもはや解釈できないなにか。でも、その何かをを見ている時に最もエモーションが高まるっていう非常に両義的なポジションなんです。で、類似性としてあるのは、それは目高であろうと、ローポジションだろうと、人の間に結局割って入んなきゃいけないっていうことですよね。先程、非自然的な自然って杉原さんおっしゃいましたけども、人を正面から見るっていう体験自体はそんなに珍しいものではないし、珍しい画面でもない。ただ、それをやってる撮影現場っていうのは、すごく奇妙なことが行われているわけですよね。で、小津は常にそれをやろうとしたっていうこと。それは何というか、すごく自分の中では頼りにしているというか。この形っていうのは非常にエモーションを阻害するわけですよね、基本的には。俳優同士が向かい合うとき、エモーションというのは凄く自然に発展していく。では、その間にカメラを置くっていうことは、その発展をやっぱり阻害するっていうことだと思うんですよ。で、小津はエモーションに関心がなかったかっていうと、決してそうではなかった、っていうことは、最近は特に思っています。で、それが、でも、そうしなくてはいけなかった。そのカメラポジションを選ぶっていうのは僕はそれは、溝口健二っていう人が常に隣にいたからだろうって思っています。俳優同士のリアクションによって最大限に高めていく、そのことができる溝口健二っていう人が全くの同時代にいて、じゃあ自分はどういう映画を作るかっていうときには、おそらくそういうポジションっていうのが選び取られてるんじゃないかって気がしています。妄想のようなものですけれど、それが自分のやり方にも、多少、反響しているところはあります。

杉原 もうひとつ、人の感情、本音を言ってしまう瞬間という話がありました。これは非常に重要なことで、一体ひとは本音を語ることができるんだろうか、またそれを撮ることができるんだろうか、その奇跡的な瞬間というものを映画は掴み取ることができるんだろうか、ということが映画にとって非常に大きな問題でもあるわけですよね。黒沢清監督は、それは意図して出来るものではないという風なことを必ず言われるわけです。ただ、それを撮ってしまえる監督というのは、やっぱりいるわけですよね。おそらくジャン・ルーシュの『ある夏の記録』の中におけるマルスリーヌ・ロリダンが喋りだす瞬間っていうのは、彼女はカメラの真正面を向いてきます。それがまさに濱口監督の正面ショットとも、どうも呼応しているような感じはあるんですけれども。ドキュメンタリーというものを、どう学び取られたのか、あるいは、芸大には菊池信之さんという小川プロの音響に携わられていた方がいらっしゃって、彼は小川プロの現場を間近に見てこられた人でもあるわけですけれども、そうしたところで何か影響を受けたっていうことはあったりします?

濱口 これはですね、残念ながら菊池信之さんの授業っていうのは、ほとんど我々は受けることはできなかったんですよね。録音領域はかなり直接的に指導をしてもらっていましたけれども、全体に対する講義みたいなものは持たれることはなかったので。それは、まあ、残念なことでした。先程のお話にでてきた、ジャン・ルーシュの『ある夏の記録』って、僕は結構前に見て、そんなにちゃんと覚えているわけではないですけれども、でも多分あれも演じ直しみたいなことがありますよね。それをみんなで見るみたいなことをやっている映画だったと記憶しています。何というか、ドキュメンタリーから学んだことっていうのがあるとすると、それは先程話したようなドキュメンタリーを撮った理由でもあったと思いますけれど、優れたドキュメンタリストっていうのは全員フィクションを撮っていたっていうことです。ドキュメンタリーとはフィクションなんだっていうことを理解して撮っている人だけが、真のドキュメンタリストっていう気がします。なので、まあ、これは言い方が難しいですが、社会的なジャーナリズムみたいなもので作られる映画ですごく重要なものっていうのは沢山あるとは思いますけれど、ただ、もし真実っていうものを求めてしまったら、その時点でドキュメンタリーとしては負け戦ですよね、とは思います。真実っていうものがあると考えて、それを素朴に捉えることもできるということを考えるんだったら、その時点で多分ドキュメンタリーはもう撮れない。フレデリック・ワイズマンであったり、ワン・ビンであったり、ジャン・ルーシュとかもそうですけども。ビクトル・エリセもですね、『マルメロの陽光』っていう素晴らしいドキュメンタリー撮ってますけど。でも、全部それは、「これはフィクションなんだ」と。もちろん現実の断片を使っているけれど、それが断片でしかない以上、それは真実ではありえず、もし真実に類するようなものが得られるとしたら、あくまでその断片を使ってフィクションとして再構成をすることを通じてなんだっていう意識に貫かれているような気がしていて、それは、自分も段々学んでいった態度っていう気はしますね。だからこそ、それにそんなに違いは無いし、今はフィクションもある種ドキュメンタリーのように撮っているところがあると思ってます。

杉原 まさにお話をうかがっていると、黒沢清監督あるいは黒沢清“先生”の言説を、もう一度濱口監督の口から聞き直しているような気もします。やはりその影響、影響というと変ですけども、やはりそうした影響を受けられたということがあったんでしょうか。

濱口 これはでも本当に影響を受けたと思いますね。そのことにどんどん自覚的になっていくっていうか、そこで黒沢さんから学んだことっていうものが自分の出発点になっているっていう気はしました。恥ずかしながら、今話したようなこと、カメラっていうのはそもそも記録の機械なんだっていう認識っていうは、やっぱり芸大に入るまではそこまでシビアに持っていなかった気がします。やっぱりどっかカメラっていうのは自分の創作のための、まあ絵筆のような、何か「創造」をするための機械なんだっていうことを思っていたような気がします。それがどちらかっていうと、表現・エクスプレッションじゃなくって、インプレッションというか、受け止める機械としてカメラっていうものがあるんだっていう、まずその認識が黒沢さんから与えられて、じゃあその現実っていうものは、そもそも自分たちが撮ろうとしているフィクションっていうのとは全く異なるものであるから、そのフィクションのキャラクターであるとかフィクションの風景である、っていうものが現実に最初から用意されているものではない。で、それを捉えなくちゃいけない。もしくはそれをある種の現実とか、現実以上のものにみせないといけないっていうときに、じゃあどういう手はず、段取りっていうものが必要なんだろうっていうことは、すごく考えるようになりました。黒沢さんが繰り返しおっしゃってることですけど、カメラを使ってフィクションを撮るなんていうものは、本当に破綻した行為であるっていう。その大前提に立ってやっていきたいっていうことを思っています。一方で、だからと言ってじゃあカメラはドキュメンタリーだったら撮れるのか、と言うとそうではないという反対の側面がある。一方でショットは時空間の断片でしかないので、それは絶対にある全体を捉え損なう。この記録の力と断片化の力がカメラの本質的な力です。「断片的時空の、完璧な光学的記録」という二重性がショットにはあるんです。あくまで、その記録された断片的現実っていうものを使って、じゃあ一体どう再構成をしていくのかっていう問題に常に立たされる。そのことを、黒沢さんの言葉を出発点にして教わったような気がします。

杉原 「断片的時空の、完璧な光学的記録」という認識は絶対的におもしろいと思います。ところで、芸大というところはいまここの断片的時空において行われているようなマスタークラスが沢山あったと思います。芸大の姉妹校というと変ですけども、映画美学校でも行われている。濱口監督の中でそうしたマスタークラスの中で何か印象に残っていることがあれば、お話いただけると嬉しいかなと思います。

濱口 これがですね、始まる前に杉原さんからマスタークラスのことを聞こうと思っていますって言われてですね、あ、ほとんど覚えていないっていうことをですね、結構思ったんです。これは運悪く受けられないものも非常に多かった。アッバス・キアロスタミとかが来たりですね、色々していた記憶があるんですけれど。ホン・サンスとかもね、最近来たし、美学校にはアルノー・デプレシャンとかも来てましたよね。そういうのを非常に羨ましいな行きたいなということを思いましたが、まあ何かの理由で行けないことが多かったっていう気がしています。ただまあ、マスタークラスっていうことを通じて考えたことがあるとすればですね、「ほんとに居るんだな」っていうことですかね。何ていうか、まあでも、全員そういう風に考えていいような気がするんですけど。ある種の伝説になっているような人たちっていうのは触れられるような範囲で居て、で、実際にある種の手仕事をずっとしているんだっていうことです。ドミニク・オーブレイさんっていう、ペドロ・コスタとかヴィム・ヴェンダースとかの編集をした方、僕が参加できた数少ないマスタークラスの人だったと思うんですけれども、何かそういうレジェントみたいな人たちっていうものが実際にいて、手仕事をして、何か越えられないもののように思ってしまうけれども、そんなに変わらないんではないんだろうかっていうことを、20代の頃、励まされたような気がします。この人達も何かを明確にわかっているわけではなくって、ものすごく巨大なわからないことに向かって、ひとつひとつ手仕事をしているんだっていう感覚っていうのは、マスタークラスで来る本当に有名な人たちっていうのを横目に見ながらですね、思ったような気がします。

杉原 いま、マスタークラスをされる側になってます。濱口監督の授業ということで、一応、フィルモグラフィーを調べようとウィキペディアを見ていて、日本語だけだと頼りないのでフランス語のウィキペディアを見ていると、こういうこと書かれているんですね。

Aux côtés de Katsuya Tomita et Kōji Fukada, Ryūsuke Hamaguchi incarne une nouvelle génération de cinéastes japonais. (中略) il s’est imposé comme l’un des réalisateurs japonais les plus importants de ces dernières années.
https://fr.wikipedia.org/wiki/Ryūsuke_Hamaguchi . 閲覧: 2021年3月7日)

つまり、日本を代表する若手監督として3人名前が挙がっていて、富田克也監督、深田晃司監督、さらに濱口竜介監督。なかでも濱口監督は、最近の日本映画界における重要な監督の一人である、っていう風なことが書かれています。しかも一昨年のパリの日本文化会館で行われたレトロスペクティブの中の、そこで作られた冊子の中で蓮實重彦先生も書かれている。今そういう風な、日本を引っ張る監督という立場になられて、どういう風な感じでいらっしゃいますでしょうか。何か気負いがあるのか、何か楽しんでいるっていう感じなんでしょうか。

濱口 これはですね……そのウィキペディアを書いた人にお礼を言いたい気持ちありますけど(笑)。ただ……自分は、こういうことを言うのもあれですけど、日本映画業界で映画を撮っているという意識は薄いんです。どっちかっていうと、映画の歴史っていう文脈の中で撮っているっていう意識のほうが強い。自主製作でやってる期間が長いですから、そういう風に思わないとやっていけないところがあった、ということなんですけど。その映画史の中に、もちろん凄く素晴らしい日本映画っていうものはすごく沢山あって、それをネイティブで聞けるっていうことがどれだけの幸せかっていうのは本当に世界中に自慢したいくらいではあるんですけど。ただ、日本の映画産業をどうこうしようっていうのは、一切思っていない。せいぜい自分の現場を、キャストやスタッフにとって働きやすいものに整える、ということだけです。ただ、何か、もっと作り方が変われば、きっともっと面白い日本映画が出てくるだろうになっていうことを常々思ってはいるっていう感じではあります。

杉原 たぶん黒沢監督も同じようなことを言われるんじゃないかと思いますけど。

濱口 ははは。どうでしょう。

馬場 国際映画祭なんかでは「日本映画」という括りの中で受け取られたりしませんか? そこに対して齟齬を感じたりはしないですか?

濱口 まあそういうエキゾチシズムというか、そういうものは当然あるんだとは思いますね。日本映画ってほんとに素晴らしい歴史を持っているところもあるんで。で、日本映画に対する期待っていうのは、潜在的にはすごく高いっていう気がします。なので日本映画っていう枠組みで見られたりもきっとするんだろうけど、それはもう、止められないからね。自分でコントロールを出来ることではないから。何というか、起こる乱高下をできるだけ抑えるっていうことですかね。自分が映画をつくり続けるのにいい環境を保つ。そのためには、物凄く過分な評価も受けず、だからといって全く評価されないのも困るっていう。それをどうやって保つか。評価を過分に受けないっていうことは、自分のね、態度次第ではきっと可能なので、なんとか慎ましくやっていきたいっていう感じです。

馬場 いや作品の受賞歴なんかはかなり派手じゃないですか?

濱口 ははは。ありがとうございます。

馬場 『PASSION』なんかだと、見られ方としてはやっぱり、日本で作られた映画であり、かつ、学生の卒業制作であるっていうところもあって、「こりゃすごい」っていう感じになったと思うんですけど。『ハッピーアワー』なんかだと、どうだったんでしょう。これは日本の映画だっていう感じだったんでしょうか。あるいは、「プロでない役者さんがたくさん出ている」という、実際にそれで賞を受賞(第68回ロカルノ国際映画祭 最優秀女優賞)もされているわけですけども。「こんな感じだろう」という水準を遥かに越えたものが出てくる、そういう見られ方はすると思うんですけども。水準があらかじめ設定されてしまっているというのは、これは意識されるものですか?「みんなこれくらいを期待しているだろうけど、これを越えていくぞ」みたいな。

濱口 あー、素人だから甘く見てねとかね、そういうことを思っているわけではまったくない。演技の上手い下手っていうものは、個人的には正直あんまりわからないんだけれど、『ハッピーアワー』においては本当に、見ていて、この人達が素晴らしく写っているって感じるのは確かだと思うから、彼女たちが受賞するっていうことも、当然あることだっていうことをどっちかっていうと、思っている。どっちかっていうと、「わかるんだ!」って思ったっていうのが、すごく正直なところだったけれど。ただ、『ハッピーアワー』に関しては、それが劇場公開する、まあ5時間以上ある映画なんで、劇場公開するっていうことに対して、ものすごいハードルがあるっていうことを、おそらく完成した時点で思っていたから、「これはもう映画祭に拾ってもらうしか生きる道はないな」っていうことは結構思ってはいました。なので、映画祭に送った中で、ロカルノに選んでもらって賞までもらったっていうことは、確実に、映画の認知のためには凄くありがたいことだったっていう気がしますね。日本でも多くの人に見てもらうために、ありがたい手助けを映画祭がしてくれる、映画祭だったらしてくれるかもしれないって思って、やっていたっていうところはすごくある。そういう点で、自分の制作にとって映画祭っていうものが心の拠り所になっている部分はすごくあるとは思います。

 

学生からの質問
卒業制作として短編映画を作りました。貯金もはたいて、すべてをかけて作りました。もう提出はしましたが、でも、自分で満足のいく出来ではありません。まだまだ悩もうと思えばずっと悩むこともできますが、完成させたい気持ちもあります。そんな時や悩んでしまった時、どうやって最終的に答えを見つけていますか?

濱口 そんな「すべてをかけた!」って言える制作をしたっていうことは、すごいことだと思います。そんな風に言えるような制作っていうのをしたことが……無い。

学生 本当ですか!? 私は『寝ても覚めても』で伝わりました。

濱口 ほんとですか。ははは。ありがとうございます。お悩みに関して、自分なりに考えると、自分がどうしてるかってことを言うと、「締切は外部に設定する」っていうことですね。社会との関わりの中で締め切りを設定する。例えば、関わった人に連絡して、何月何日に試写をやりますって言ってしまう、とかね。もうひとつは、「及第点はだいたい60点だと考える」っていうことですね。もう60点とれればいいはず。がんばれば60点くらい、少なくとも自分の頑張りに対して60点を与えることはできるはずなので。で、大事なのは、次にもう一回やるってことです。60点で満足できなかった部分っていうのは絶対にあるんで。自分もいまだに満足などしたことが本当に無いので。できなかったことっていうのを、じゃあ次どうしようかなって考えるっていうこと。で、周りの人ともそういう関係をつくっていくってこと。今回はここまででした、っていうこと。今回はここまでです、じゃあ次どうしましょうかっていうことをやっていくっていうのが、すごい大事なんじゃないでしょうか。いまチャットの質問にもありますが、「作品を作る上で心がけている信念」っていうのは、例えばそういうことです。そんなに完璧主義だと疲れますよっていうこと。もちろん、ちゃんと作るっていうのは仕事をする上ですごい大事だけど。まあでもね、敵はあまりに巨大っていうところがあるんで。負け戦をどう負けるかっていうことの繰り返しっていう気はしますね。

学生 なるほど。ありがとうございます。自主制作映画をこれまで沢山作られてきたとうかがいましたが、自主制作映画でもちゃんと期限を決めているっていうことですよね。

濱口 期限はですね、自主制作なので決まってないですけど、そのことの良い面と悪い面が恐らくあるんですけど、ただ、まあ、基本的には、多くの人を巻き込むようになると、どっかで期限が決まってくる。みんなの精神的なリミットっていうものが出てくるからです。自分ひとりになっているとなかなか難しいかもしれないですけど、周りの人を巻き込むことによって自然と期限が生まれてくるっていうところがあるんじゃないでしょうか。

学生 なるほど。ありがとうございます。私も濱口監督のようになれるよう、腕を磨いて色々がんばります。

学生からの質問
行き詰まったときはどう切り替えていますか?

濱口 まあ、行き詰まったときは……

馬場 行き詰まり方にもよりますよね。創作的になのか経済的になのか。

濱口 ははは。ほんとそうですね。まあ、自分でどうにかなることだけをするっていうのが、まず大事ですかね。お金はね、どうしようもないときがあるので。行き詰まらないような作品規模に収めておくっていうのは大事です。創作っていう点から言うと、僕は撮影が行き詰まるっていうことは、これは多くの人とやってると、無いんですよ。どちらかと言えばもう流れ作業で撮らなきゃいけないっていうことが問題で。流れ作業とまで言うとあれですけど、さっきも言ったように他の人と一緒にやっていると、一度流れができてしまうともう押し止めることは、ほぼできない。もう、この日までに終わらなくてはいけないっていうことがあるんで。それまでにどれだけ準備をしておくかが大事です。撮影で行き詰まることはあんまり無いんですけど。脚本に関しては、やっぱり沢山行き詰まる。自分の中で2つラインを持っとくってのはいいと思いますね。ですが、そういうときは、ひたすらインプットをするっていうことですかね。何か別のことをする。で、もちろん作品とか脚本とかのことを考えてしまうけど、ひたすら別のインプットをしていると、何か糸口がある。 逆にインプットをしないとほぼ絶対に糸口がないっていう気はしますね。

馬場 丁度いま定刻となってしまいました。ありがとうございました。

西尾 まだ質問もあるかなと思うんですけれども、時間が来てしまいましたので、これで授業は終わりにしたいと思います。受講生のみなさんにはコメントシートが公開されています。質問はそちらに書いて頂けましたら共有します。濱口様、本日は貴重なお話を頂きありがとうございました。

濱口 こちらこそ、ありがとうございます。大変な学生生活だと思いますが、頑張って下さい。


特別連載:『映像表現特講』

(1)ゲスト:杉原永純 氏

(2)ゲスト:杉原永純 氏

(3)ゲスト:松井宏 氏

(4)ゲスト:松井宏 氏