メディア学科の他学科公開科目『マスメディア学入門』において、2023年6月22日にゲスト講師を招いて実施した講義から、一部を書き起こして掲載します。

  • 筒井龍平(映画プロデューサー、株式会社トリクスタ代表取締役)
  • 杉原永純(映画プロデューサー、キュレーター)
  • 馬場一幸(目白大学専任講師)

前回 特別連載:『マスメディア学入門』(1)

ドキュメンタリーとフィクション

馬場 かつて程の影響力が無くなってしまったとしても、社会問題を取り上げた映画は今も作られています。そうした作品は基本的には実際に起こった出来事、実話を元にしたものですよね。ストレートに取材してドキュメンタリーにするのと、わざわざフィクションにする場合と、プロデューサー的な視点ではどのように考えるのでしょうか?もしフリーハンドで企画を立てようとなった時にどのようなことを考えますか?せっかく実制作の方をお呼びしてるので、そういう話を聞いてみたいと思います。

筒井 人かな。ドキュメンタリーにしようと思った時に、まさに当事者もしくはその周辺で近しいところにいた人の中で「あ、この人を捉えれば映画として成立するな」とか、それこそ90分120分の尺でなんとかなりそうだなっていう人。その人がいればそれで万事オッケーっていうことにはならないだろうけれども、そういう人とまず出会えるかどうか。

杉原 ビジネスとして考えるんだったら、基本的にフィクションでしか成立しないと思うんですよ。映画として完成させるときに、出演者が誰かってのが、やっぱり一番の売りになったりする。ある種ドキュメンタリー的な手法だけで作られたものって多々ありますし、可能だと思うんですけど、ビジネスの方でいえば「お客さんが呼べる出演者」は必須だし、なければ集客以前に制作の土台になるお金が集まらなかったりする。どういう風にこれを切り取るかとかクリエイティブの問題以前に、そういうことが横たわっていると思うんです。実際の問題・事件みたいなものをどうやって表現するのかって話の時に、やっぱりフィクションにするよねって思います。

馬場 杉原さんがあいちトリエンナーレ2019で上映された『さよならテレビ』という作品がありますね。これはドキュメンタリーですけども、あそこで主張されているような内容は、劇映画として描き出すということもできる。さらに、ドキュメンタリーだけれども「フィクション的要素は入ってますよ」ということを作中で宣言してもいます。それは作品の中心的テーマと言ってもいい。ただ、そういうメッセージを伝えるのにあたって、最初からフィクションで作ることもできるとは思います。テレビや報道の内幕を描いた映画というのはありますよね。例えば『新聞記者』という映画が最近ありました。これはドキュメンタリーと劇映画と、両方ありました。[i]

筒井 どっちも見ました。圧倒的にドキュメンタリーの方が面白かった。やっぱ強度が違って、それは望月衣塑子さん自体のキャラクターの強さみたいなものもあった気もする。「人間がやっぱ面白い」って思っちゃう自分の嗜好も多分に影響してると思うけど。実はドキュメンタリーとフィクションというのは、なかなか容易に線引きができるものでもないっていうところに帰ってきちゃうのかな。

杉原 オリジナルで企画を立てるときに、どこかリサーチに行ったりするじゃないですか。で、そのリサーチをした場所で出会った人がいたり、もしくはそこから派生して、また誰かを紹介してもらったりとかするんですけど、そういうのってやっぱり人の繋がりが主になってくるんです。「この場所さえ押さえればいい」とか、何か人間以外のもので完結することって無くて。どうやって色んな人に繋がってくか。撮りたいものが固まる前の段階でリサーチとか行ったりすると思うので、やはり「人」で企画の形が徐々に出てくるような気はします。そうすると次には「その人を映すか?」みたいなことを考えることになる。それがドキュメンタリー的と言われればそうなのかもしれないです。そんな順番で企画が形作られていくということを自分は何度か経験したので。「ドキュメンタリーとフィクションの境目がちょっと難しいですよね」というのは誰だって今だったらわかると思うんです。カメラを向けた時に「ありのままの自分でいてください」と言われたとしてもできない。何か「演じている」状態になってしまう。それとフィクションとの違いって、どこにあるんですかと。ある人をある場所に連れて行ったり、カメラを置いた時点で普段の状況ではなくなっちゃう。そういう意味で違いがどこにあるということを自分ははっきり言えない。全部段取りして俳優さんが演じればフィクションで、普段テレビや映画に出ていない人がカメラの前に立ちさえすればドキュメンタリーですって言えるのかというと、すごくそこは微妙だと思うんですね。去年沖縄で筒井さんと『GAMA』(監督:小田香)という映画を撮影していました。出てもらったのは地元の人で、ガイドの活動をされている方。その方に最初はガイドとして沖縄の自然の場所、色々なところに案内してもらったりしていたんですけど、やはり「その人を撮ろう」となって。で、ご本人も「いいですよ」ってなって、何度かやりとりして。いよいよ撮影しますという時になって「やっぱり何かシャツは綺麗なものを買ってこようかな」とか、そういうことになるんです。普段の活動のまま撮りたいなと思っていたんだけれども、本人としては色々整えたいというか。そういうことが具体的に出てくるんですよね。そのガイドの方が話しているシーンとか撮るんですけど、それが普段やっている仕事と全く同じとは言い切れないかなって。

馬場 カメラをそこに置いてしまったが最後、どうしてもハレの日になっちゃうんですよね。だから普段の通りやってくださいっていうのが通用しない。じゃあカメラを置いたらみんな「よそ行きの格好」になるので、そこに写っているものは真実なんかないんだっていうようなこともまた極端な意見です。カメラがあるからこそ、つい言ってしまう本音、つい見えてしまう本心みたいなのが出てくる場合もある。普段は全然意識してないのに、カメラがあって、そういう場が作られると、何かポロッと言っちゃうみたいに。ドキュメンタリーはそういう作用をうまく利用して作品にしますね。


[i] 2019年に、劇映画『新聞記者』(監督:藤井道人)とドキュメンタリー映画『i-新聞記者ドキュメント-』(監督:森達也)が公開された。

不都合な真実

筒井 さっき、メディアとしての映画のパワーは凋落してしまったみたいな言い方をしたけど、でも前言撤回というわけじゃないんだけども、映画ってやっぱり今を反映しているという側面はすごくある。例えば今カンヌとかアカデミー賞とか、大きな映画祭で賞を取っているような作品というのは、まあ大体、戦争とか、多様性とか、政治的なこと、ジェンダー的なこと、気候変動、あとは格差社会みたいなことを何らかの形で描いている。その窮状というか、「もう行き着くところまで行き着いちゃったよね、はてどうしましょう」みたいな大概暗い話になっちゃうんだけども、「でもそこに一縷の希望の光が差し込む」とか、「諦めちゃ終わりだ」とか、もしくは「もうおしまいだ」とか。いずれにせよ、多分に「今この時」っていうのを反映してるメディアだなというのは思っている。それで思い出したのが、昨今のCO2云々とか気候変動とか温暖化が云々ていう話の、ある種の引き金を引いたといえる『不都合な真実』っていう映画があった。アル・ゴアっていうクリントン政権時代の元副大統領の人が音頭を取って、このままじゃ地球環境がやばい温暖化がやばいって物凄い旗振って。その映画一発でそうなったんじゃなくて、そういうムーブメントがあって、その映画がトドメを刺したみたいな感じだったと思うんだけれども。いわゆるソーシャル・イシューを扱ってムーブメントを起こそうっていう作品の、多分21世紀入ってからの走りだったというか、あそこからだったんじゃないかなと思って。これがね、ナショナル・ジオグラフィックの1プログラムだったら、ここまでの影響力はなかったと思うんです。もちろん、元副大統領のアル・ゴアがバックにいたというのは大きかったと思う。けれども、映画が持っているメディアとしてのパワー、影響力という意味では、「いや、もう映画は沈みゆく船だ」みたいな言い方をさっき俺はしちゃいましたけれども、いや意外とそうでもない。やっぱりかなり力を持ったメディアでいまだにあり続けているのかなという風にも思い直しました。

馬場 確かに『不都合な真実』はインパクトがありました。しかも、恐らく『不都合な真実』をみんなそんなに見てないんですよ。これは書籍とかもそうなんですけど、読んでない人とか見ていない人にも影響があるんですよね。「どうもあの映画でこういうことが描かれているらしいぞ」とか、観ていない人から意見を言われるということがある。ちょっと前ですが『靖国 YASUKUNI』や『ザ・コーブ』、さらに前になりますが『バトル・ロワイアル』の騒動もありました。

自主規制

馬場 検閲は強制ですが、自主規制は自由裁量です。不祥事を起こした芸能人がテレビ謹慎になって、しばらくしたらNetflixとかで出てくるというのがありましたが、あれは一体何でしょうね。Netflixはマイナーな存在ではない。作品を送り出す側の基準もそうですが、見ている側の倫理感覚に不思議なところがあるんですよ。

筒井 不思議だよね。やっぱりテレビというものに対して公共性という幻想が多分にまだまだ成り立ってんじゃないかな。「そんなことしでかしておいて電波に乗っかるなんて、けしからん。だけれどもネットメディアだったらまあいいかな」みたいな非常に曖昧な。公共性なんていう堅苦しい言葉をみんな頭に思い描いているわけではないだろうと思うけど、あえて言葉にするとそういうことのような気がする。パブリックな場に「そんな不始末をしでかした奴がどのツラ下げて出てくるんじゃ」みたいな。

杉原 自主規制を突っ切れない理由って本来はない。さっき『さよならテレビ』の話がありました。作ったのは東海テレビっていう名古屋に本社のあるフジテレビ系列のテレビ局です。そこは時々ドキュメンタリー作品を再編集して劇場で映画として公開するということをしているんです。そのプロデューサーの阿武野勝彦さんと話したときに、「なんでこんなに続けてるんですか?」みたいな話を聞いたら、「テレビはやっぱり受け取る側のリアクションが見えない。どんな感じなのかわからない。映画として公開して、果たしてテレビより多くの人数が見ているかどうかもわからないけども、見ている人のリアクションがよりはっきりする。テレビの場合、作っている側の人たちは流しっぱなし作りっぱなしっていう感覚になっちゃうけど、テレビよりももう少し強い繋がりを感じる」っていうようなことを言っていて、そのことが要は作り手側のモチベーションに繋がると。テレビを作っていても、視聴率っていう数字でしか成果が見えてこない。そうなっていくと、「もう何かしでかしそうなことはやめておこう」って発想にやっぱりなるよなって思ったんです。ただ、阿武野さんはすごい面白い人で、映画としてそれを公開することによって、何か違う空気が生まれていく。始めた当初は東海テレビぐらいしかなかったんですけども、実はその手の「テレビ番組として制作したけど劇場公開するもの」ってすごく数が増えてる。同じようなブレイクスルーをみんな考えていると思うんですよね。ちょっと空気を入れ替える。そうするとテレビ、特に東京の主要なキー局じゃないところにいる地方の人たちが「なんで仕事やってるんだっけ?」っていうところがもう少し今、問い直せると。クリアになってくるんだろうなって感じがする。もう公開して大分経っちゃったし、いいと思うんですけども『さよならテレビ』は社内的には本当に劇場公開するのかと、すごい議論になったそうです。やっぱり社内にカメラを向けるので。それまでは他人、「自分たちと違うもの」に向けてたのを自分達が作ってる現場に1年間カメラを向けるっていうことを企画としてやるとなった時、なかなか理解が得られなかった。やってる間も色々言われるし、その状況で撮れたものを編集してテレビ放送して、それもまた中で色々言われる。それは具体的なスポンサーとか誰かが怒るからっていうんじゃなくて、みんな何となく「やめましょう」という空気になっていく理由が恐らくある。だから映画が、ある種テレビを作ってる人からすると抜け道になっている。

馬場 『さよならテレビ』では、話を分かりやすくするために悪役というか邪魔者というか、そういう描かれ方をされてしまう人がいますね。でも、それは本当は悪い人でもなんでも無くて、映画として見やすくするために、言動を恣意的に切り取って編集をした結果、そんな感じになっている。「これはドキュメンタリーですよ」って言っているから、あたかもその人が普段からそのような人であるように見えてしまう。偶然ではなく意図的にやってる。その方が話がわかりやすいから。YouTubeの生配信とかはさらに踏み込んで、疑似的にその場を共有して、心理的にもすごく接近する。画面に登場するのは生身だったりVRキャラクターだったりするわけですけど、そこに投影されている人格というか、視聴者側から見ている「人柄」っていうのは、どこまで作り物だと思われているのか、何か怪しい感じがするんですね。もう生身で出ている感じというか。「悪党を演じています」じゃなくて「悪党です」と自ら宣言して、そういうものとして受け取ってくださいと。表現の基本スタイルがそうなっていそうな気がするし、受け取る側もそんなもんだと思って受け取っている。

杉原 どっかで耳にしたのは俳優事務所のマネジメント側の意見。ドラマでも映画でも敵役、フィクションの中の悪い役みたいなのをますます受けにくいみたいなことを言っていました。それは俳優さんのイメージコントロール的な理由です。敵役ってことは当然、あるドラマの中ではとても重要な役なわけですよね。だけどそれをやることによって、こう言っちゃなんだけど、どんな人が見るか分からない、それによって俳優本人のイメージがすごく引っ張られたりイメージが傷つくから受けられない、みたいなことを聞いた。そういうイメージじゃない俳優さんこそ悪役をやると面白いってあるじゃないですか。見る側が以前よりも映画だけでなく映像一般に、映っているものと現実の世界との関係性がナイーブになっているような気がするなと。

筒井 映画に限らず、真実がどこにあるかみたいな話だと思うけど、『不都合な真実』について面白いなと思ったのは、原題が『An Inconvenient Truth』つまり不都合だから、インコンビニエントって。今のオルタナティブ・ファクトとかを連想させる。『不都合な真実』っていうタイトルで表される概念を気候変動温暖化の映画につけてプロパガンダやったわけで、すごい象徴的だなと思って。だから映画にしても、俳優本人と演じる役とが混同されるから悪役をなかなか引き受けづらいみたいなこととか、YouTubeを介して共有している画面の向こうの人は本当の悪い人なのか、悪ぶっている人なのかとか、それだけ見るとナンセンスなんだけど、メディアを介してのコミュニケーションの中で「その人にとってみたらそれが真実なんだ」「他のやつがどう考えようが俺にとってはそれが真実だ」みたいな状態になると。それは傍から見るとすごい滑稽で、「いやいや、それはさすがにないでしょう。嘘八百だよ」っていうのが、いざ当事者からすると「嘘八百をいうなんて、お前けしからん。お前が信じているその世の中が嘘八百なんだ」みたいな、もう身も蓋もない話になってる。面白いなっていうのはちょっと不謹慎な言い方かもしれないけど、メディアの有り様という意味では、ちょっと映画から離れちゃうけど、面白い世の中になっているので、学生の皆さんはぜひその辺を勉強研究の対象にしていただけると良いな、なんて無責任に思いました。

馬場 確かにポスト・トゥルースとか、「それはフェイクニュースだ」なんて言ってみたりとか、現代的というか今風の話ですよね。そこに芽があった、そこから発芽したのかっていうのは今まで思いもしませんでした。

筒井 そこに一つのきっかけはあったんじゃないかなって。不都合=インコンビニエントと真実=トゥルースって、真実にそんなインコンビニエントもクソもないはずなのに、それを前にくっつけちゃうというのは、これはある種のイノベーションですよ。