メディア学科の他学科公開科目『マスメディア学入門』において、2023年6月22日にゲスト講師を招いて実施した講義から、一部を書き起こして掲載します。

  • 筒井龍平(映画プロデューサー、株式会社トリクスタ代表取締役)
  • 杉原永純(映画プロデューサー、キュレーター)
  • 馬場一幸(目白大学専任講師)

IPユニバース

馬場 まずは柔らかめの話題からいきたいと思います。お二人は最近見て面白かった映画って何かありますか?

筒井 僕は子供達と一緒に『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』を見に行って、クソみたいに面白くなくて。びっくりしちゃって。すみません、いきなりディスって。触れ込みとしては「説明過多じゃない」つまり、台詞とか言葉とかでなるべく説明をせずに、映像そのものの描写でもって映画を作っていってるという触れ込みで、評判もすごい良くて、お客さんも入ってるっていうので見に行ったんですけど。説明がいらないというのはマリオでずっと遊んできた人であれば、キノコをゲットすると大きくなってパワーアップするとか、スターをゲットすると一定期間無敵になるとかという共通のプロトコルみたいなのが説明されなくても分かってるから説明いらないっていうだけで。ストーリーとかは本当ふざけた話で。で、見終わった後「パパどうだった?」って聞かれて「びっくりするぐらい面白くなかった」と言ったら、子供達がドン引きして悲しんでいたという、悲しい出来事がありました。映画自体は子供たちは楽しんで観ていました。自分自身は一昨日、シネマヴェーラという渋谷のミニシアターでやっている吉田喜重監督特集で観た『甘い夜の果て』っていう津川雅彦さんの主演のモノクロの松竹の50年代の映画がめちゃめちゃ面白かったですね。

馬場 マリオは私も拝見したんですが、非常に気を使って作られているっていう感じはしました。でも、面白くないという感想もよく分かります。観終わった後の感想が自分の中で分裂するんです。面白い映画を見たような気がするけど、でも面白いかと言われると、何か言い切れない。僕はレイトショーで仕事の帰りに一人で観ました。時刻が遅いこともあって、わりと年齢層高目の人も来てました。この作品が成功したので、ゲームの映画化をどんどんやろうみたいな話になっているみたいですね。

筒井 だろうね。カプコンとか、かなり鼻息荒い感じで映画化控えているみたいですよ。

馬場 『バイオハザード』があったじゃないですか。だからゲーム原作で映画化するっていうのは初めてのことではないし、珍しいことでもない。マリオも昔、実写映画が作られました[i]。デニス・ホッパーがクッパ役でした。残念ながら面白くなかった。ヒットもしなかったです。

筒井 今回のはヒットを狙ってマーケティングして、そしてドンピシャで当ててきたっていう意味では、ものすごくパワーのある作品であることは認めなきゃいけない。

馬場 マス(大衆)に対して訴求した結果は、興行収入として現れてくるわけですよね。その意味では成功例ですね。

筒井 もう大成功も大成功。ゲームのソフトの売り上げランキングのトップテンのうちの半分以上がマリオ関係になった。マリオカートとかの1つ2つ古い版とかが、再びランキング圏内に上がってくるっていう稀有な例になったらしい。大成功です。

馬場 かつての角川映画のメディアミックスみたいなことですね。「読んでから見るか、見てから読むか」[ii]といって、映画が広告的に機能して原作小説も売れると。

筒井 ある一つのネタ元があって、それにいろいろな出口をつくる。映画化だったり、アニメ化だったり、漫画を小説化したり、はたまた大きい話だとテーマパークにしちゃうだったりとか。そうやって1つのキャラクター、1つのコンテンツを色々なメディアに展開していって、あらゆる消費の出口から金を吸い上げる。IP(インテレクチュアルプロパティ、知的財産)の宇宙(ユニバース)を作って、あらゆるところからお金を取っていく。まさにメディア戦略というか、映画、ゲームをコンテンツの核として捉えて、それを多面的に展開していって、経済的な効果を最大化する。その戦略がぴたっとはまって当たったっていう、すごい教科書的な事例ではあるんでしょうね。

馬場 映画作品単体ではなく、あちこちに手足を伸ばしている全体を見ないといけないわけですね。何億もかけて作り、全国何百館で公開するみたいな事業を作品単体で考えるのは難しいですね。


[i]スーパーマリオ 魔界帝国の女神』(監督:ロッキー・モートン、アナベル・ヤンケル、1993年)

[ii]人間の証明』(監督:佐藤純彌、原作:森村誠一、1977年)のキャッチコピー。

原作と続編

筒井 IPユニバースっていう点で、やっぱり原作ありきっていうのが基本的な映画の作り方としてある。自分とか杉原さんとかがやってるのは、原作がないオリジナルの企画でやることがほぼ100%です。ただ、ゼロから新しいキャラクターや物語を立ち上げて、それをマスに届けようと思うと、恐ろしい労力とカネとメディアの占有率が求められちゃう。だから予めある程度ヒットしている小説、マンガ、視聴率の良かったテレビのドラマシリーズ、あるいはゲームのキャラクターとかっていう、ファンベースがある程度できちゃっているものが各種メディアで展開される。ヒットした漫画をアニメーションにもするし、映画にもするみたいな。マスに届けようと思うと、既にある程度認知が広がっているものを扱わざるを得ない。マーケティングとしては極めて正しい戦略だと思います。だから、よく言われるように、ナントカ2とか3とかっていう、言葉を選ばずに言うと「それ焼き直しなんじゃね?」みたいなやつが横行していく。それが興行収入を叩き出すという意味では正しいんだろうけれども、作り手としては忸怩たる思いもあるというか、良し悪しあるよなっていう感じはしますけどね。

杉原 自分も原作ありきのものというのを製作でも配給でも扱うことが少ないです。上映の時は当然いっぱいあるんですけど。そもそも、すごいニッチな方の映画ばかりやってるので、そこの大変さみたいなことをよく理解できてない気がするけれども。一時に多くの人に見られる現象ってのは、原作があれば必ずそうなるわけでもないし、いろんな変数があるんですよね。それがコントロールできないから、映画産業ってのは現在あるような感じでずっと続いてるんだろうと思うんです。会社員の人たちが作っていると、やっぱり自ずと安全なファンベースがあるみたいなものに常に近づくってのは理解できる。アプローチの違いだと思ってます。例えば小説をベースに映画の脚本を書いて、それで映画を作るってことがあるじゃないですか。それが企画として成り立って、最後の出口の戦略まで全部できている映画ってのが、きちんとヒットするというのは、今とても必要な要素なのかなと。

馬場 原作の有無や続編であるかということは、興行的な成功を約束するものではないし、ましてや作品の芸術性というか、作品そのものの価値を決定するものではありませんよね。いくつか思いついたのは、例えば『ドライブ・マイ・カー』は原作があるわけですけど、良い作品だと思いますし、最近のヒット作では『トップガン マーヴェリック』も良い作品でした。筒井さん、お好きじゃないですか?

筒井 大好きです。最高でしたね。

馬場 『トップガン マーヴェリック』はむしろ続編だから成立している部分がたくさんあると思いました。あの作品は新型コロナのせいで公開が延期された。でも、当初の狙った時期に公開できなかったことで時代遅れになった感じは全然なかった。作品の強さだと思いました。全体的に80年代風の感じですよね。冒頭に「ドン・シンプソン/ジェリー・ブラッカイマー」ってスクリーンに出た時、劇場で「これはタイムマシーンだ」と思いました。

筒井 もう俺は、オープニングから泣くかと思った。ちゃんとトニー・スコットへのリスペクトと、1へのオマージュなんかが、すごい感じられて。涙ちょちょ切れるかと思いました。

杉原 私も好きです。本当に楽しめるし、別に1を見てなくても、あれ自体が完成していると思う。だから全然「80年代っぽい」みたいなことが分からなくても面白いんじゃないかなと見てて思った。何ら文句はない。トム・クルーズをスクリーンで観るの好き。出てたら見ますよ。でも、どうなんだろう。そういったことが「果たしてこれ伝わるのかな?」と今も話しながら思ってて。ハリウッド映画みたいなものが少なくとも自分たちが若かった世代よりも見られていないのも事実だから。どうも映画が、もう〈マス〉メディアって言えないんじゃないかと。マスメディアの中の一部かもしれないけれど、マスとして輝いていた時代はとうの昔に確かに終わっている。さっき言ってた「ベースがある」みたいなことでは、多分数十年前までは世代が違っても共有できていた一つの映画みたいなものがあった。恐らく今そういうものがなくなっている。その点、マリオとかは、凄く特殊なIPだと思うんです。ずっと続いているし、子供も親も、そのさらに上もみたいな事だから成り立つよなって。

筒井 今の映画はメディアに乗っけてマーケティングするし、プロモーションするし、結局「こんな映画やるんですよ」ってマスメディアでプロモーションを打たなければ、その映画が存在することすら届かない。そういう関係なんだけれども、昔はまさに映画自体がマスメディアだった。折角の授業という機会だから、歴史的なことまで触れておくと、インターネットどころかテレビが無かった時代、映画がまさにメディアの王様で、ニュース映画とか戦争中の大政翼賛的なフィルムだったりとか、あるいは教育関係のフィルムだったりとかいうのがあった。紙に書かれた文字の媒体じゃなくて、映像という視覚的なメディアとしては映画しかなかった。エンタテインメントとしてだけじゃなくて、報道も、教育も、ビジュアルのメディアは映画しかなかったっていう時代から、ここ半世紀以上、メディアとしての力が無くなったとまでは言わないけれど、完全に映画は凋落していった。資本関係で起きてることで言うと、例えばアメリカのユニバーサル映画はNBCユニバーサルという巨大なメディアコングロマリットの下に入ってるわけだし、日本だと日活が日テレのグループ会社になったりとか。要は、資本関係的には完全にテレビに従属しちゃってるような形になっている。映画がマスメディアであるとは、さすがに今この令和の時代にもはや言えないと思う。そういうパワーゲーム的な位置関係という意味では、映画のメディアパワーは落ちてきちゃったし、マスメディアに従属せざるを得ない。

馬場 今もテレビや新聞やラジオで映画が話題にはされている。文化とかエンタメの一つとしては生き残っていくだろうけれども、いわゆる「マスメディア」と言ったときに思い描かれるような規模の影響力みたいなものは、どんどん弱まっていくのかもしれません。


次回 特別連載:『マスメディア学入門』(2)